華胥之夢
包丁が木の板を叩く音で僕は目を覚ます。うすら出汁の香りが鼻をくすぐる。そういえば、師匠は親元を離れた僕のために、毎朝味噌汁を作ってくれていたっけ。なんとなく懐かしいことを思い出しながら、まだ眠いままの体でふらふらと起き上がる。
「おはよう。よく眠っていたね、目覚めはどうだい?」
あの人が僕に声をかけた。いつの日かだ。そんなことを、僕はふと当たり前のように思い出していた。
「おはよう、師匠。今日もいい朝だね」
「あぁ、日差しの暖かい、いい朝だ。朝ごはんはまだ準備中だから、先に顔を洗っておいで」
あの人は優しく微笑んだ。僕にとっての先生はこの人だと、改めて感じる。各々の最高の先生というのは、違うものだ。また真剣な表情で具材を刻む作業に戻った相手を、僕は愛おしく思わずにはいられなかった。
まぁ、いつまでも思い出に浸っているわけにはいかない。僕はくるりと足の方向を洗面台に向け、歩きだそうとしたところでふと疑問に陥る。
はて、あの人は一体誰だったか。もやがかかったかの様に顔は見えないし、記憶が抜け落ちているかのように名前が思い出せなくなった。
大切な僕の師匠、ということだけは、よく覚えているんだけど。
そのことに一瞬冷や汗が流れた。別れて3年、1秒たりとも忘れたことなどない師匠の名前を、すっぽり無くしてしまったことに対する恐怖。
「……失うとは、こういうことか」
冷たい水で顔を洗う。このまま恐怖や不安さえも洗い流されればいいのに。現実はそう都合よくはいかないけど。
洗面台から戻ってくると、魔法でお椀に味噌汁をよそっているあの人が目に入る。師匠は、僕が来たことに気がつくと、嬉しそうに話しかけた。
「顔をすすぐだけなのに長かったね。さて、準備を手伝っておくれ」
懐かしい出汁の香り、フライパンから香るウインナーの匂い、蓋を開けばふわっと湧き上がる白米の湯気。そのどれもが、僕の摂食中枢を刺激する。悲鳴をあげそうなお腹を抑えながら、僕は言われた通りに準備を手伝う。
これは出会ってからどれくらい経った頃なんだろう。僕は師匠の役に立てるくらい、まともに魔法を使えているだろうか。いや、今の僕でも、役に立てるか分からないけど……まだ彼に教えてもらった魔法をものに出来ていると思いたい。
「うん、マナコントロールもとても安定している。魔法の発動にも問題ない。腕が上がったね」
そういって、師匠はもう子供とは呼べなくなった僕の頭を優しく撫でた。こんなの久しぶりで、そういえば昔はこうやって褒められるために頑張っていたよなぁと思い出した。
いずれにせよ、この光景は今より少し前昔だったころは、当たり前だったのだ。
だから、少なくとも、こんな幸せなひとときを、嫌だなんて思わない。出来ればこの幸せな時間が、一生続いてほしいと切に願う。
机には用意した朝ごはんが、2人分。左右対称に並べられて、箸に付けられるのを今か今かと待ちわびている。
「いただきます」
僕達は箸を手に取るまえに、手を合わせて感謝をする。そうして料理の望み通り、箸をつけてやるのだ。
「サージュ。そろそろ君に、話しておかないといけないことがあるんだ」
師匠が、丁寧に食べながら君に話しかける。上品にお茶碗を利き手ではないほうで持って、柔らかに微笑む。ふと、脳裏に嫌な予感が過ぎる。2度目の別れか。しかし僕も子供じゃない。泣き喚いて師匠を困らせるようなことなど、したくない。
「いや、再三言っていたかもね。私は言葉足らずだから、君には伝わっていなかったかもしれないんだけど」
少し申し訳なさそうに、伏し目がちに喋る。ようやく、師匠の顔がはっきり見えてきた。靄がかかるのは朝だけだ。朝ごはんを食べているつもりだけど、もしかしたら今は昼なのかもしれない。久しぶりに見るキミの顔が、こうも悲しいものであってほしくなかった。
「君のことは、本当に大切なんだよ」
「けれど、私にはやらなくちゃいけないことができた。独断だけどね。まだ若い君を連れていくのは危険だと思って、ハーベストに押し付けてしまったんだ」
師匠が泣きそうな顔で微笑んだ。そんな笑い方をするくらいなら、謝らなければいい。
「……僕は、そんなこと、今まで1度も気にしていない。あなたが無事なら、本当にそれで」
上手く言葉を紡げなくて、途中で詰まってしまう。師匠は手に持っていたものを机に置いて、僕の隣に座り直し、ぎゅっと抱きしめた。
馬鹿だなぁ。そんな風に甘やかすから、親離れが出来なくなるんだよ。僕の両親はとっくに蒸発して、育ての親は君しかいないというのに。
兄弟にも、紹介してやりたかったのに。
「優しい君に、酷なお願いをする。どうか、私のことを嫌わないでほしい」
どこか寂しげな声色で、囁いた。些細な感情の動きひとつすら忘れないくらい、脳に焼き付いて離れてくれない。
心のどこかで、現実が夢であればどんなにいいだろうと思っていた。僕の先生は師匠だけだ。魔法の扱いも、魔導次元のことも、全て彼から教えてもらった。親から貰えなかった愛情をくれたのは、他でもないこの人なのに。
今の僕は、蝶か。
「……あなたを嫌うことなど、僕にはできないよ」
朝日が室内に舞う物質をキラキラと輝かせた。僕の声は、弱く震えた。僕を肯定するかのように、師匠は強く僕を抱きしめ直す。泣きたい気持ちを押さえ込んで、僕は彼にしがみついた。
師匠は僕の手を握って、また泣きそうな顔で僕に言葉を告げる。
「お願いだ、魔法決闘をしてほしい」
その瞬間、普段師匠が愛用している発動体とは、別のものから師匠の魔力を感じ取った。酷な願い過ぎやしないか。夢とはいえ、僕にあなたをやれというのか。
「たった1回だけでいい。ほんのすこし、弱い魔法でいいんだ」
懇願する様に、僕の手を自身の頬に近付けた。伝わる体温は生きている人のもの。愛しいほど暖かく、再び抱きしめられたら二度寝してしまうほど。
この夢を手放すのは精神的な負担が大きい。けれど、この夢を続けるにしても、同じように負担が大きい。いずれにせよ、僕に得は無い。さらに付け加えるのであれば、僕にとって彼の願いを無下にすることは難しい話だった。
誰よりも優しい魔法使い。奇跡は願っても起きないんだね。
「……いいよ、レイター師匠。それが願いなら」
「……ありがとう」
優しいあなたに愛をあげたい。最後の最後。夢ではない現実では、あなたが生きていたとしても、この夢では1度終わらせなければ。
「あなたが世界で1番尊い存在だと思っている。そんなあなたに、また巡り会えるように」
「……ハートチェイン」
僕は魔法を放った。着飾った言葉も、装飾の多い魔法も、必要ないと思った。銃口と師匠の体はゼロ距離、誰が見たって後はない。
この夢ではこれが最後か。僕はふと、もし本当の別れがくるなら、こうならないでほしいと密かに願う。自分の手で最も大切な人を手にかけるなど、できれば一生したくない経験だから。
無意識に涙が流れる。誰がこれに耐えられるものか。優しいあの子たちを見送った時よりも、酷く感情が揺さぶられている。何年生きたにせよ、うちの学長や悪魔から見れば、僕はまだ若造だ。7年も前から別れが決まっていても泣いてしまう人もいる。
これらは、僕が泣くための言い訳に過ぎない。
けれど、溢れ出る涙は止まらない。
「泣かないで、サージュ。もうこの姿で会えなくとも、また別の姿で巡り会えるから」
「その時は、私を見つけておくれ。私もまた、必ず君を見つけるからね」
レイトクロインは微笑んだ。彼は、自分を射抜いた僕を消えそうな目で見つめている。夢だから、痛みは無いのだろうか。僕とは反対に、酷く幸せそうな表情をしている。
彼の体からどくどくと血が溢れ出る。師匠の生きた証。奇跡を追い求めた魔法使いの体を支えていた液体が、今、とめどなく流れ落ちる。
「大好きだよ」
どんな物語のヒーローになっても、僕はたった1人、レイトクロイン・レドモンドに愛された人間なのだ。彼を忘れることはない。今までがそうであったように。
最後に耳を触った6文字は、心地よく僕を微睡みに誘い込んだ。
目を覚ます。けたたましく鳴り響くアラーム音が、今日は朝からの講義ということを教えてくれる。心地の良い夢から引っ張り出した音を煩わしく思いながら、スマートフォンを操作して音を止める。
さて、今日も一日が始まる。いつも通り部屋に目線を向けて、一瞬固まる。
「……はは。おは、よう」
おはよう、サージュ。ゆっくり話はできたかな?
神様がそう問いかけるように、寮室に添え付けられていた勉強机には、一便の封筒が置かれていた。
宛先は僕の名前、筆跡は愛しい人。
少しずるいんじゃないのかな? 本日一つ目の授業に遅刻する覚悟を決めて、僕は封を切った。
エンドA
「さようなら、ゆうべ夢をみたよ」

