「……」
『それ』がいつからそこにあったのか。どうして『それ』が生まれたのか。
今となってはそれを知る者はなく、また『それ』自身も自らの起源を記録していない。
ただ『それ』はそこにあり、また幸運なことに『五感』のようなものを備えていた。
ただただその場にあって、人々の営みを記録し続けた。
『おお、あんた……よう帰ってきたねぇ……』
考える時間は無限にあった。自分が見た、聞いたことでなくても、考えを巡らすだけの知性も持ち合わせていた。
確か……この人の『旦那』は大きな『戦』に出掛けていたはずだ。
なるほど、『戦』とは生命を落としかねないものだったのか。
そう言えば、最近周りが騒がしくなってきた。聞いた話によれば、『このエドのマチにショウグン様がバクフを開かれた』らしい。
知らない単語ばかりでよくわからない……もう少し情報が必要だ。
あれからどれくらい時間が経っただろうか。
あの謎の言葉の意味もとっくにわかってしまった。ふと、自分について何も考えたことが無いと思い至った。
人間は人間から生まれるし、動物は動物から生まれる。……じゃあ、私は?
わからない。知りたい。……私も色々『世界』を見て回りたい。私も『人間』だったらなぁ……
ただただその場にあって、『人間』を羨み続けた。
また、どれだけ時間が経っただろうか?
「……?」
気が付くと、『私』は『立って』いた。手が、足が動かせる。ぺたぺたと『私』に触ってみる。
どうやら『衣服』を着ている。傍らには一冊の『本』が落ちている。表紙には「螺旋ノ記憶」、背表紙裏には「螺旋回廊27」と書かれている。
……何となくわかる、これは手放してはいけないものだと。とにかく、私は動き回れる!!色々見て回れるんだ!!
「…ありがとう。大好き、でした……」
それからは目まぐるしく時は流れ、時代は移っていく。
飢饉で多くの人が死に、不作に涙し、天災に、火事に、多くの人が消えていく。
その中で私は変わらない。食事をとることも、眠ることもできるけれど、栄養失調に苦しむことも、睡眠不足で倒れることもない。
それなのに、私には何もできない。積み上げた知識も記憶も、人々を救えない。
ただただ立ち尽くし、無力を噛み締めた。
ある時、海の向こうから、大きな船がやってきた。
そして、俄かに世間は騒がしくなり始めた。数百年ぶりに、戦いの足音も聞こえてきた。
そしてこの音は、私の生活が大きく変わる音でもあった。
声を掛けられた。名前を「東京」と改められたこの街で。
振り返り、その人を初めて見た時。私は、私のこの作り物の身体は、どくん、と心臓が跳ねた気がした。
名前を尋ねられて、とても困った。これまでは、名前が必要になったら適当に名乗っていた。
でも、彼にそれはしたくなかった……理由はわからないけれど。
だから、ほんの少しの間だけ、急いで考えて、こう答えた。
「えっと、江戸町 美波……です」
それからは、比喩ではなくあっという間だった。彼と過ごした日々は、とても…とても楽しかった。
幾度も引っ越しを強いる事になり、恋人であることを隠し、終いには人里離れて隠棲することになった。
それでも、幸せだった。彼も幸せだと、言ってくれた。彼からすれば私と出会ってからの一生を。私からすれば、ほんのわずか50年を。
静かに雨の降るある日、彼は息をひきとった。知識としては知っていた。人間は、生物は、その寿命が尽きたときに死ぬのだと。
それでも。それでも、私は泣いた。何度日が昇り沈んだか、わからないほどに泣き続けた。
ただただ彼の亡骸の傍で、涙をこぼし続けた。
彼が最期に言った言葉。今になって考えれば、これは私を縛る、一種の『呪い』になってしまったのかもしれない。
それでも、彼が私を愛してくれたように。私を人と扱ってくれたように。
私も、『人』を愛すること。……そのために、私にできることを探すこと。
そう決意して、彼との思い出が詰まった山中の小屋を後にした。
また、声を掛けられた。どうやら、あのすすり泣きを聞かれていたらしい。
『魔法使い』を探しているらしい彼が言うには、私は生まれながらの魔法使いで、その力を自覚していない…らしい。
半信半疑のまま彼にある場所を案内され、言われるがままに唱えてみる……
すると、突如虚空に炎が噴き出た。……本当だった。この力が、魔法が使えるなら。
私も、人の役に立てる。彼との約束を果たせる……!!もう、無力に悩む必要はない。
それが、魔法使いとしての、『私』の始まりだった。
続く

